memo
そして、こう感ずるとき、われわれは、狭苦しい密室から逃れたのだという感覚、すべてが、つまり、どんなよいことも悪いことも起こりうる世界に、本物の、深遠な、恐るべき、予測できぬ、無尽蔵の世界の星の下にふたたび出てきたのだ、という甘美な感覚をいだくのである。
オルテガ 『大衆の反逆』 寺田和夫訳 中公クラシックス p.32
すべての「鍵のかかった部屋=頭蓋骨の内側にある部屋」は「子供部屋」である。思い切って、そう言ってしまおう。その意味では「探偵小説」も「青春小説」も、ひとしく「子供部屋」の小説なのだ。質的な違いがあるとしても、「そんなことわかっていて、あえて子供部屋で遊んでいる」のが成人の娯楽としての「探偵小説」で、自分がもはや子供ではなくなりつつあることに気づいた青年が、部屋に鍵をかけて中でなにかコソコソ書くのが「青春小説」で、その青年が開き直って「子供部屋で何が悪い!」と言い出したのが「新本格ミステリ、というくらいだろう。
仲俣暁生 『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』 バジリコ p.34
すなわち、われらの時代は、すべての過去の時代よりも豊かであるという奇妙なうぬぼれによって、いやそれどころか、過去全体を無視し、古典的、規範的な時代を認めず、自分が、すべての過去の時代よりもすぐれ、過去に還元されない、新しい生であるとみなしていることによって、特徴づけられるのだ。
オルテガ 前掲書 p.p.46-47
鍵のかかった「子供部屋」で起こる殺人事件を謎解きする快楽にふけるのには、もう飽きた。「子供部屋」で書かれる生真面目な手記や日記も読み飽きた。でも、なにも起こらず、だれもが適当に距離感をはかっている「鍵のかかっていない部屋」の話も、そろそろ退屈なのだ。
仲俣暁生 前掲書 p37
では、その肯定は何を否定するのか。「それ自体として」という、もはやパースペクティヴなき極大のパースペクティヴを持ち込むことによって、それは何を否定するのか。もちろん、個々のパースペクティヴを、である。なぜ、そんなことをするのか。そこから抜け出して、極大の肯定に最後の救いを求めずにはいられないほど、自分のパースペクティヴが、自分の力への意志への固執が、耐え難いからである。
永井均 『これがニーチェだ』 p.p.203-204
だから、われわれはここからもう一度、ニーチェ空間をたどりなおさなければならない。この空間は、それ自体が永遠回帰のような円環構造なのだろうか。それとも、登り切った後には打ち捨てられるべき螺旋状の会談のようなものなのだろうか。それは、その人がどこからこの空間に入り込んだかによって異なって見えるはずである。
私は、打ち捨てられるべき螺旋階段なのだと思っている。それは、おそらくははじめからニーチェ空間など少しも感知しなかった人と同じ外部空間へ脱出するための、ながいながい回り道なのである。
前掲書 p215
われわれが絶対的な悪だと思っているものも、いったん彼らの視点に立ってみれば、そしてすべてのひとがそうなってみれば、現在の多数派がつくりだしている世界よりも、はるかによい世界なのかもしれない。
永井均 『マンガは哲学する』 講談社 p.22